鬼ヶ島の鬼伽姫
―紅鬼編―


#1 放課後の鬼ヶ島


校長室、午後4時半。大西学園高等学校長・手嶋大五郎(てじま だいごろう)は一人でいた。書類整理の手休めに、タバコの本数を数えていた。肩をぐっと上げ下げすること5回。疲れていた。だから、ドン! という大きな音を聞いても、少し反応が鈍かった。
「どうぞ」
彼はのんびり言った。もう一度、ドン! 非常識に大きいノックだ。
「どうぞ。お入んなさい」
ドン! ドアが飛んだ。ふっ飛んだ。校長はタバコを取り落とし、倒れたドアと散乱する本や椅子を呆然と見た。舞っている埃をさあっと散らして、娘が一人こちらに向かってくる。ひたひたと。無遠慮に。校長は喉から声を漏らす。
「き、君は……」
大きい娘だ。奇妙な格好をしている。肩から纏う衣は赤と黄色の毛皮のようだ。腰に巻いた厚そうな布は、年季が入って擦り切れていた。

「な、なんだね、君は……」
「おまえが責任者か!」
娘が怒鳴った。えらい剣幕だ。
「お、おまえとはいきなり失礼じゃあないか! 要件は何だね、君!」
娘は答えず、校長の机にドスンと裸足の足を乗せて、歯を剥いて逆上した。
「失礼だ? 失礼ってェのはおまえらのことだろうが! こんなところで、一体誰に断ってハイ・スクールなんぞ経営してるんだ、え?」
校長はぽかんとした。娘の言っていることの意味がわからない。不正なはずがない。私立大西学園高等学校は、もう半世紀近くも続いている、地元では名の知られたエリート進学校だ。理事長に取り次ぐまでもない。そう思った。しかし、大柄の娘にジロリと見下ろされているせいか、緊張感で体が動かない。彼は返事の仕様がなく、ぼそぼそ言った。
「あの、もしや場所違いじゃあ、ないのかね。ちなみに、う、うちは大西学園の高等部なんだが……うちの経営に何か問題でも……」
「だーかーら!」
と娘。せっかちに怒鳴りつける。
「これまで、アタシらがその経営を黙認してやってたんだ、バッキャロ! それどころか! ここは若い衆に物の道理を教える場だってェことで、場合によっちゃ、外野から守ってやってもいたんだ! それをよくも、恩を仇で返すよーな真似しやがってェ……」
地団駄を踏んでいる。校長はうーむと唸りながら頭を掻くと、一言。
「要件を言いたまえ」
「要件? 決まってんだろ! この札は何なんだ!」
娘の手にそれはあった。見覚えがあった。たしかにうちの札である。
「その札は、たしか……」

こういう経緯がある。近年、古い校舎によくない噂が広まった。おそらくはこの学校が墓地を埋め立てて建てられたためであろう。数々の怪談、特に幽霊の目撃談が殺到し、その手の話が好きな者達のインスピレーションを大いに刺激した。小説投稿サイトで人気を博した学園妖怪コメディの舞台が本校であると噂されたのも記憶に新しい。最近ではついに、学園は怪談話と結びつけられてネットで大喜利のネタにされるに至った。

校長は動じなかった。知人は教えてくれた。民俗学には、スポイルドプレイス(ケガレの場)という言葉があります、と。墓地を埋め立てて作られた学校など、死のケガレを持った場所に怪談話が生まれるなど、ありふれた話なのです、と。その時、彼は深く頷いた。うちだけが特別じゃない、そういう場所の宿命なのだ、と。それだけである、と。

そんなある日、ある業者の人間が来た。魔払いをしようというのだ。流行りの訪問販売か宗教団体か。その日もこの机越しに男と対座して、校長は鼻で笑ったものだ。

――私としてはオカルト商法の類はお断りしたいのですがね

が、どこか影のあるその男は欧米風のゼスチャーで巧みに返してきた。

――オカルト? とんでもない。私に言わせれば、『魔除け』と言うのは元来、人間心理を利用して、個人ないしは集団のパフォーマンスを高めるための科学なのです。それを表す言葉が現代の科学のそれと異なるだけでね。超自然的なものへの不条理な信仰は無くなりませんよ。人間の性ですな。そして、こうした不条理な信仰が、時にきわめて実際的な災害ともなることもあるでしょうな。たとえば、今の大西学園さんのようにね
――と、申しますと?
――倍率、下がりましたよね
――それが悪霊の仕業とでも?
――呑み込みが悪いですな、あんたも。人間というのは不確かな迷信など信じていないいないと言いつつも、それを心に留めるというそれだけのことで、まさにその迷信に消極的に加担してしまうものなのですよ。はいはい、そうですとも。確かに現代人は下らぬ噂を理由に進路を変えるなんてことはしないでしょう。しかし、多くの選択肢がある中から縁起の悪しきをあえて選ばないのもまた人間の心理。これが私の言う消極的な加担というやつですな
――ふむ。まあ、理由の一つとしてはそれもあるでしょうな
――そうです。だから、形だけでも、この迷信にあなた自らの手で終わりを書き込んでやってはいかがでしょう。いや、むしろ形こそが大事なのですよ。そうは思いませんか。形は物語と言ってもいい。今この学園に必要なのは、霊を供養し、悪霊祓いの儀式を行い、ここにあるケガレはもうすっかり清めたぞ、という物語です
――まあ、たとえ形だけでも対応すれば……良い節目となるかもしれませぬな……
――取り引き成立ということでよろしいですかな。お安くしておきますよ。なあに、こういうのもサービス業ですからな。値が下がると質が落ちるなんてことはございませんので、ご安心を……
男はこなれた様子で冗談を言うと、首尾よく契約書とボールペンを差し出したのだった。

校長は手短かにその経緯を娘に話した。娘は椅子の上にあぐらをかきながら、聞いていた。そして、聞いた。
「その男、なんと名乗った?」
「君と何か関係がありますか?」
「大アリだってんだ、ハゲさんよゥ」
校長は目を宙にしばし泳がせて思い出そうとする。
「えー、ほら、たしかなところだった。調べてみれば大きな企業さんがバックについていて……そうだ、有名なホワイトホーン・コーポレーションの子会社の……えーとたしか」
「ホワイトホーンだと!」
娘は遮った。険しい顔をしていた。髪の毛をざわざわと波打たせ、席を立ちざま倒れていた椅子を乱暴に蹴って立たせた。そして、背を向けた。
「わかった! もういい!」
「よくないぞ、これだけ散らかしておいて」
「このアタシに片付けを命じるのか? おまえ、まだ自分の立場をわきまえてないな」
「何だと。君は一体、誰だというのかね!」
大柄な娘は肩をいからせてクックと笑った。振り返ったその瞳は般若の如く燃え、額には二本の邪悪な角があった。

「アタシは鬼一族の鬼伽姫(おにがひめ)! 覚えていやがれ、もしまたこんな真似をすれば、こんな学校、絶対潰してやるからな!」

そう言って立ち去ろうとする娘だったが、新しい来客の胸に激突した。校長は今度こそすくみあがった。紅の皮膚の大男。幅広のはんてんを纏った巨体と、恐ろしく厳ついその形相は、街中では大層目立つことだろう。男は脇をすり抜けようとする娘の腕を掴む。娘が牙をむく。
「何をする、親父」

男は本や書類が散乱する床に目を落とすと、ため息をつき、校長に頭を下げ、これまた不気味なほどの柔和な声を出した。
「申し訳ございません、昼の殿、いえ、校長殿。娘がご迷惑をお掛けしました」
言うと、床に落ちている書類をかき集めかき集め、
「ほんとにもう、なんとお詫びを申し上げたらよいのやら、まっことウチの不肖の娘ときたら気の短いったらもう」
校長は男の腰の低さに逆に戸惑ってしまった。
「謝るのは向こうだろ、親父!」
娘が両の拳を握り締めた。
「鬼伽姫!」
大男は凶悪な面構えでガッと吠えて、娘を制した。黙る娘に、男は最後の本を机に戻してから静かに言った。
「おまえが神経をすり減らすことはない。それに、これはデリケートな問題なのだ。なんていうか、まあ……今は自らの身を大事にするのだ」
「じゃ、短い余生を遊んでくらせってのかよ、親父」
大男は渋い顔で娘を睨むと、
「言うな」
と一喝。堀の深い顔に哀愁をにじませて、男は不器用そうに表を指差す。娘はきっとした目で父を見上げている。もはや校長は空気も同然。父と娘のすれ違いがいかにもファミリードラマめいて展開しているその横で、ただあんぐりと口を開けていた。

「行きなさい。くれぐれも人間に関わるなよ」
「言うことはそれだけか、親父」
「今は身体を大事にしろと言っているんだ、不良娘。おまえは長生きするだろうよ。おまえに限って……」
娘の方は不満そうに背を向けた。
「言っとくがアタシも」
立ち去りざまに言った。
「この若さで死ぬ気はないね! 例の万病薬を見つけてやる。生きた万病薬をね!」
そして、墨でかき消したようにその姿が消えた。

校長はしばし呆然と見守っていたが、大男の力強い眼差しに気づき、えほおほえほほ、と不完全なエヘン虫を3回。勇気を出して、男に問う。
「あんたたちは何者かね」
男はガシッと太い腕を組み、先ほどとは打って変わった野太い声で名乗りを上げた。
「うむ、自己紹介が遅れましたな。お初にお目にかかります、昼のオーナー。わしとおまえさんは言わば同業者。わしはこの敷地の夜のオーナー、『西の鬼殿』こと、紅鬼でございます」
そう、鬼だった。男の胸元は今ばっさりとはだけ、禍々しいまでの赤い筋肉がうねっているのが覗いた。男はもはや正体を隠さず、額には一角獣よりも凶悪な一本角を生やし、はんてんを千切らんばかりの煮えたぎる豪腕を備えていた。
校長は驚きのあまり、ぱかっと口を開けたまま、後ずさり後ずさり。鬼はゆっくりと近づいてゆく。
「娘とは別用にて参上致した。と申しますのは、このハイ・スクールに……」
ぐいぐいと凶悪な顔が迫る。校長はゆっくりと白目を剥いた。
「薬学師『ヨロズ』の子孫、万(ばん)家の血を引くものはおりませんかな」


夕方6時半。校舎裏の駐車場だった。少年は震える手で、女の裸体の腹部をそっと撫でた。いかにもグラビア印刷の冷たさがあった。彼の名は万千児(ばん せんじ)。ヒュウと口笛を吹くと、彼はもう一度取り引き相手に確認をした。それは、2人だけの極秘の取り引きだ。
「ほ、ほ、ほんとにいいんスか、先輩?」
と品性下劣の面構えで目を輝かせる。
「おうよ、俺はもう飽きちった。とっとけとっとけ」
「サンキューでっす!」
先輩と言うが同級生だ。一年留年している隙山大平(すきやま だいへい)。同性には人気のある男だった。言動は助平だが情に厚かった。精悍な顔立ちだが表情はいつも助平だった。その大平がおもむろに聞いた。
「ところで君、誕生日はいつだよ?」
「来月ッスけど」
「留年してたっけ」
「してません」

大平はくっくと喉で笑った。長めの茶髪を意味ありげに指でくるくるといじる。
「ダメじゃあないかよ、18未満。1ヶ月、待てねえのかよ、スケベ!」
千児はけっけと大げさに笑った。
「へっ。17歳のうちに見とかなきゃ、もう同じ青春は18歳じゃ味わえねえんですよーだ。刹那主義的精神。わかるっしょ、先輩?」
「なるほどね。でも、なーんか、惜しくなってきた。返せや」
「いやだね。先輩はくれるって言ったぜ?」
大平は千児の首に腕を回し、ニタッといやらしげに笑う。
「おーおー、わからなくもねえんだよ。おれにもあるのよ、刹那主義っつーか、美意識ですね。やっぱ男の子のワイ談ってゆうもんはだね、ひっそりと、しかしコートーキョーイク機関の敷地内のうすぎたねえ隅っこでされるのが乙だねえ。そう思わんか、え?」
千児は頷くのを躊躇する。
「そういうもんかよう、先輩」
先輩であって先輩でない。むしろ兄貴に近い大平には、ついつい敬語とタメ口が混じる。
「そうそう。物の道理ってゆーか、道徳さんの裏をかいちゃってるカンジがたまんねえのよ、ふ!」
笑う大平。まんざら冗談でもない。整った男前に似合わず、彼はやたらと下世話なネタに詳しい。クラスでのあだ名は『先生』。それはつまり、『エロの解説者』を意味する。それはいつも唐突に始まる。

「おい、その本の白クマさんの付箋付いたページを見ろや。変なカマエだろ」
「かまえ?」
「とぼけやがって。体位のことだよ」
千児はぱらぱらと本をめくる。しかし、白クマさんの付箋は取れてしまったのか、見当たらない。
「変な体位? 先輩、どれッスかー?」
大平は突然上半身をのけぞらせ、意味不明なポーズをとり、一人切なげな流し目を作る。
「ほら、こんなだよ、こーんな。あったろ、こんな具合の」
「キモ」
「キモ。じゃねーよ。おっとっと。これは勉強熱心なおまえにぜひとも学ばせておきたいカタチと思ってだな。『エドしじゅーはって』のアレですよ、えーと」
が、大平がそれを思い出すより早く、千児の目は別のものにとらわれた。
「何だありゃ!」
思わず大平がコケた。千児は駆け出した。何かを追っている。
「おい、待て!」
走る千児。何かを追っている。走る大平。千児を追う。もう下校時刻を過ぎ、夕日はもうすぐ沈もうとしていた。


「なんですかね、あれ」
と千児。しいっと唇に指を当てる大平。

うねうねとしたものが、あった。二人はそれを追って校門から廊下へ出た。校舎内はふしぎとしんとしている。その物体は宙に浮いて、時に赤く、時に白く発光し、軟体動物のように絡んでいた。
「うわ、気持ちわりい。クラゲが喧嘩してるみてえだ」
階段踊り場の角から異様の光景を見守りながら、千児は言った。大平は真剣な面持ちで首を横に振った。
「いや、あれは……」
その声は緊張で鋭かった。
「エッチだろ」
「マ・ジ・で?」

「俺が言うんだ、間違いねえ。バイトと競取りで貯めた一月につき数十万、全てをエロに費やしたこの俺が見たポルノは7700は下らねえ」
「しかしポルノはポルノじゃ……」
「それだけと思ったか。俺は生命の神秘を愛する男だ。世界中の生物学のドキュメント番組を視聴しまくり、あらゆる動物の交尾を記憶しているのよ。『エロの解説者』様の名札はダテじゃあねえんだ。あれは喧嘩じゃねえ、交尾だ。たしかクラゲは交尾はしねえ。しかし、あれは呼吸にもムーヴにも、交尾にしかありえない、独特のリズムが見受けられる」
「何と」
大平は握り拳を震わせながら、なおもクラゲを見守っている。
「しかし、あれはよくおれの知らねえ体位だ。おれの『四十八手大図鑑』にも『裏四十八手大図鑑』にも江戸末期の写本にも、載ってねえ体位だ」
「へえ。あれ、性交体位さんの一種なんスか?」
千児が信じられぬ心地でクラゲを見守っていると、驚いた。突風だ。突風が廊下に吹いた。そこに大柄な女、いや、少女がいた。反対岸からやってくる。燃えるような怒りのたたえた目。

――貴様ら

少年ふたりは思わず身を寄せる。自分たちのことかと思ったのである。しかし、彼女の怒りはクラゲに向いていた。
「何をしている、小妖怪ども! そうだ、おまえらだ、アメクラゲにクレクラゲ!」
クラゲは何やらそそくさと中を泳ぎ、弁解する。娘の顔が引きつってゆく。やがて。
「今はまだ営業時間外だぞ! このバカップルが!」
少女の体がじわじわと大きくなる。日焼けした色のその皮膚が、てらてらと光沢を帯びて、一塊の金属のような様相を帯びる。筋肉が育ち、牙が生え、二本の角が萌芽する。
「ひえ」
と言いかけた千児の口を塞ぎ、大平が彼を引きずって、勢いよく駆け出した。


玄関を出る。と、校門付近に何やら人が列を成して歩いている。よくよく見れば先生や生徒だ。二人が何か叫ぶ直前、最後尾の警備員が大きな門を締め、鍵を駆ける。
「バ、バカ〜! 俺たちが見えねえのか!」
叫ぶ大平。しかし、彼らはみな何かに強制されでもするかのように、ふらふらとおのおの帰宅してゆく。
「ば、ばかな」
「閉じ込められた?」
二人はぎょっとして背後を向く。キュウウウ……。何かの悲鳴のような声。ぞっとした千児は右手で体育館を指す。
「あそこに隠れようぜ、先輩! 何かやべえよ、やべえ感じがする」
「俺もだ。くそ! ワイ談にふけり過ぎた。もっと早く帰っていれば……」


そして二人は体育館に侵入する。鍵の壊れた2階の更衣室の窓から入り、そそくさとキャットウォークへ。静かだ。静かすぎる。不安は絶えないが、呼吸は落ち着いてきた。
「おう、千児。さっきの体位、何てんだろな」
唐突に大平が言う。千児はどっ……となごんだ。
「さすが先輩。エロの先生。研究根性ぬかりねえな。でも、おれはそれより、さっきのあの子が気になるけどね」
「あのおっかねえ女か? おまえ、ああいうのが趣味か?」
「先輩、そういういじりは最悪よ?」
「いいじゃねえか、俺とおまえの仲だろ。ああいうの好きなん?」
「とんでもねえ。ただ、何者なんだろって」
が、大平はいまだにくどくどとクラゲの体位に固執している。
「ほら、触手を手を握るように絡めてだな、どうやらオスもメスもウエもシタもなかったろ、待てよ、頭は上向いてたが、腰はどっち向きだったかな」
と言いつつ、一人で見えない相手と合体して研究している。千児は気持ち悪がって少し距離を置く。ふと天窓を見上げると、射し込む陽はますます細く暗くなり、ちょうど消えようとしていた。6時40分を過ぎていた。心細い気持ちで千児が隣を見ると、大平はまだ一人で身体をくねらせていた。
「どうでもいいけど、よく器用にくねくねできますね」
「おうよ、いつでも相手の要望に答えられるようにな。ところでおまえ、四十八手のキヌタっていうネタ的なやつ、知ってっか? あれは超絶技巧だぜえ」
「それも体位でっか?」

が、聞くまでもなかった。大平は一人で無理な姿勢にこごみ、一人で何やら踊りらしきものを始めた。
「ヘイ! 見ろ見ろ。この日本で『一人キヌタ』ができんのはきっと俺様一人だぜ、オーイェー」
とご機嫌にベリーダンスをしていたその時だった。何かがポクッといった。何だろう、と千児が首をかしげた直後、大平がドスンと倒れた。
「先輩!」
大平は海老のように身を丸めて倒れて唸りながら言った。
「や、やべえ……こ、腰か、臀筋のどっかを……やっちまったらしい」
千児は大平を起こそうとしたが、無理だった。下手に動かすと痛みがあるようだ。
「そ、そんな、先輩……ここで死ぬのか?」
「死な……ねえよ、バカ」

言い終わるか終わらぬうち、ガシャン! と炸裂音が高く響いた。
「な、なんだ……」
ヒュウウ……という不気味な音。ザワザワという耳鳴りのような響き。何かが動き始めていた。ガラスが再び、ガシャン! と砕ける。何やら不透明なものが、天井やバスケット台を這いずり回った。
焦る千児。しかし、大平はまだ不自然な形にのけぞって倒れている。
「先輩! 早く逃げねえと! 何か、何かやべえよ、ここ!」
反応なし。
「根性見せてください、先輩! せっせとジム通って、あんなに頑張ってたじゃあねえですか! エッチなことをいっぱいするために、女がホレる筋肉を作るんだって、頑張ってたじゃあねえですか! 先輩!」
「だ、だめだ。た……たしかに俺は、見せる、ための筋肉は、鍛えてきた。けど、その代わり俺は……実用の筋肉を……ちと犠牲にしすぎたようだ……うっ」
「……そういう作家いたッスね、たしか……」
「おれはもう……だめだ。おまえだけでも……行……け」
「先輩! 先輩! 隙山センパァアァアーイ!」

カチカチと時計が鳴っている。二人の周辺を異様な気が包み込んでいた。空を切って、蛇が泳ぐ。豊かな体躯を備えた大蛇が、4匹、5匹、いや、もっと。それは生きているようでもあり、機械のようでもあった。時刻は六時五十分。辺りはもう真っ暗だ。

そこに声がした。アルトの声。
「こんな時間に何をしている、人間」
千児は涙目で振り返る。先ほどの娘、いや、鬼だ。体育館のど真ん中から、彼女は跳躍してキャットウォークに乗り上がってきた。後ずさる千児。しかし。
「せ、先輩は動けねえんだ! 動けねえやつに手を出すような真似は、しねえよな! それ以上近寄ったら、承知しねえぞ!」
が、娘は無表情だ。宙を舞う蛇がさらに増える。娘は辺りを一望し、状況を把握すると、ふんと鼻で笑う。彼女は千児に飛び掛かりざま、有無も言わせず、左腕で彼の胴を締めて抱き上げた。反発する千児。娘の腕はまるで熱をもった鉛だ。硬い。それでいて焼けている。娘は跳んだ。高く跳んで、うねる蛇型の船の群れをかわす。そのまま窓へ。
「ああ、隙山先輩が……置いてけぼりに……」
娘は呆れたように答える。
「諦めろ、あんなもん。ぐずぐずしてると『鬼ヶ島』の経営が始まるぞ。客が来たらおまえ、妖気で窒息するぞ」
「鬼ヶ島だって?」
「『モーテル鬼ヶ島』だ! 今日は一足早い時刻で営業開始なんだ! 最近飢えている魑魅魍魎が多いのでな」
「よくわかんねえけど。でも、でも。あんなもんだけど先輩は良い人なんでェ、ちょいと非情すぎるぞ、鬼の姉ちゃんよう!」
しかし、逆らえなかった。この娘の怪力の前では、彼は余りにも無力だった。

10秒もかからず、娘は校門まで駆け抜け、跳躍。柵を跳び越えて、着地。千児を降ろす。
「ちくしょう! 先輩を置いていけるか!」
「礼を言ったらどうだ、人間。この鬼伽姫さまが手ずから助けてやったのだ」
千児は娘が自分に危害を加えないので、少し図に乗った。いつもならありえぬ勇敢さで、精一杯かっこつける。
「うるせえ。友達を置いていくのは、おれさまの信条に反する。なんちって。わーい、言っちゃった言っちゃった」
「何様だ、貴様」
「万千児さまだ!」
娘はしばし黙った。空を無数の異様の船が駆けてゆく。娘のその輪郭は魍魎たちの極彩の灯りの影でゆらめいて、異様の気を発している。千児はどきりとした。言ったことを後悔した。
「万……だと……」
肩を震わせて、鬼の娘が言った。
「やっと見つけたぞ」
牙を剥き出して、鬼伽姫が言った。
「生きた万能薬!」
ガッと歯をむき、筋肉を脈打たせ、歓喜の叫びを上げる。途方もなく大きな影が彼に覆いかぶさる。彼はその威圧感にすくみ上がった。

食われる。
千児はそう直感すると、なりふり構わず逃げだした。
しかし、遅い。
つかまる。牙が迫る。体が縮こまる。呑まれてゆく……。
そして。
少年は落ちてゆく。鬼の体内へ。果て無き闇へ。落ちてゆくのを、感じた。